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『微睡の中で(5)』


□始業 その5

青年はフォークを拾いながら、心配そうな目でこちらを見ている。
営業ではなく、心から心配しています、と言っているような瞳でこちらを見ている。
「お客様、大丈夫でしょうか?もしよろしければ奥で横になっていかれてはいかがでしょうか?」
どうやら、眠ってしまっていたようだ。まだ心臓が強く脈打っている。
頭もズキズキと、ひどく痛む。

「すいません、大丈夫です。あ、下げてもらってもいいですか?」
冷たくなったパスタの皿を、すこし持ち上げて相手に「残っているぞ!」と主張するように向けた。
おそらく、冷たくなった今でも美味しさは衰えていないそのパスタは、
先ほど見た黒い水溜りを連想させ、吐き気すら覚えた。
「はい、かしこまりました。お飲み物はどうされますか?冷たいドリンクにお取り替え致しましょうか?」
「いえ、暖かい、いや、熱いコーヒーをお願いします。後、濃い目でお願いします。
・・・いや、いっそのこと豆のままでお願いします。」
「ふふ、豆ですね。 畏まりました、ではすぐにお持ちします。」
悲しそうな、心配そうな顔が晴れ、ようやくいつもの笑顔で冷たくなったパスタをもって奥に消えて行った。

ようやく意識がはっきりしてきた。お腹に食事が通され、落ち着いて眠ってしまったのだろう。
鉈を持って立ち尽くす夢。最近、いつも見ている夢だ。”うたた寝”でも見るのかと思うと、うんざりしてくる。

「お待たせしました。」
コーヒーが到着した。その横に小さいお皿が置かれた。
小皿の上には、コーヒーの豆を、チョコレートでコーティングしたお菓子が12,3粒、転がっていた。
「疲れが取れますから。」
青年は笑顔をこちらに向け、軽く頭を下げて奥へさがった。

コーヒーをひとくち含み、ゆっくり胃に流し込んだ。
ようやく頭の中にあるモヤが薄れていった。コーヒー豆をひとつとり、口の中に放り込んだ。
甘い。噛み砕くと、コーヒーの苦味が口の中に広がり、なんとも言えない味と香りが口いっぱいに広がった。
コーヒーの香りが口から鼻に抜けていき、それに従い、意識がはっきりしてきた。

もうひとくち、コーヒーを口に含んで席を立った。戻ろう、そして今日は早く帰ろう。
まさか食事中に寝るほど、疲れていたとは思わなかった。夢のこともあるし、早めに帰って、
途中レンタルショップによって、見逃した映画のDVDを借りて見よう。
きっと精神的に疲れているのだろう。それであんな夢を見るんだ、きっと。
今晩も同じ夢を見るようだったら、明日一日休んでしまえばいい。
とにかく、今日は早く帰ろう。そう心の中で言い聞かせた。

伝票を持って、レジへ向かった。
清算も行列ができていて、最後尾について順番を待っていた。
レジには、先ほどの女性店員が立っていた。あせる様子もなく、テキパキとレジ打ちをこなしている。
ここのお店は、忙しいときにも笑顔を忘れない、そんな教育が徹底されているようだ。
いや違う、教育されて出来る笑顔ではない。おそらく生来のものだろう。
先ほどのコーヒー豆のお菓子のような気遣いは、どんな教育を積んだ所で簡単にできるものじゃない。
本当に心配をして、もってきてくれたのだろう。そうこう考えているうちに順番が回ってきた。
「ありがとうございました。あっ、大丈夫でした?お仕事忙しいんですか?」
2,000円をトレイの上に置きながら、
「ええ、最近睡眠時間が少なくて。あ、それで先ほどコーヒー豆のお菓子をもらったんですけど、
伝票のほうに載ってないみたいなんですよ。」
「ああ、アレはサービスですよ。従業員が小腹が空いて仕方がない時に口にするお菓子なんですけど、
お腹が落ち着くだけじゃなくて、眠気も覚めるし、便利なお菓子なんですよ。そうだ、ちょっと待ってくださいね。」
といって、制服のポケットから小さな紙袋を取り出した。
中には先ほどのコーヒー豆をチョコレートでコーティングしたお菓子がいっぱい入っていた。
それをお釣りと一緒に、手の中に押し込んできた。驚いていると、
「これ、私の分なんですけど、疲れが取れるんで仕事中にでも食べてくださいネ。・・・あまり無理しないでくださいね。」
やばい、感動して泣きそうだ。
「おいしかったです。本当にありがとうございました。」
深々と頭を下げて、また来ます、と言い残して店を出た。ずっと制服に入っていたせいか、紙袋はほんのり暖かかった。
心の中も暖かく感じた。ますます、この「チェスター」が好きになった。


これで夢の事が無ければ、気持ちよく会社に戻れたのだが。
日差しが暖かく寅之助を包み込んだ。




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