『微睡の中で(4)』


□始業 その4

疲れている。おそらく、今も疲れているのだろう。「疲れている」という感覚が麻痺しているのか、
どの状態が疲れていて、疲れていないのか、最近では区別が付かなくなってきている。
寝不足ではあるが、そのことを大して苦痛に思っていないため、疲れと認識できないのだろうか?

この業界に入る前、学生だったころは、眠れない日が続いたりして真剣に悩んだものだ。
時には睡眠薬を処方してもらい、服用していたのだが、いまではまったく必要のない薬となってしまった。
つまり、目をつぶればどこでも眠ることができるようになった、ということだ。
疲れを意識することはないが、体は睡眠を欲しているようで、隙を見つけては眠りを貪ろうとする。

しかし、眠ったはいいが、脳が休むことをせずに働き続けているようで、必ずと言っていいほど夢をみる。
それも同じ内容の夢が繰り返される。誰かを殺す夢。いや、殺したであろう状態に自分が陥っている夢だ。
・・・やめた。食事中に考える内容ではない。やはり疲れているのだろうか。
すこし、うとうとしてきた・・・。だめだ。眠ってしまってはいけない、そう思い、目の前にあるきのこパスタを
平らげてしまおうと、意識をテーブルの上に持ってきた。

おかしい。テーブルの上が、寅之助の認識していた状態と異なっている。
食べていた途中のきのこパスタが、すでに皿だけの状態になっている。きのこ1つ残っていない。
どういうことだ?なにが起きたのだ?いったい誰が食べたのか?・・・わからない。
空になった皿をじっと見つめて、そして目をつぶり、ゆっくり深呼吸をした。
(だいじょうぶ、そこにパスタは存在する。気のせいだ)
ゆっくり目を開ける。そこにパスタは、存在しなかった。パスタだけではない。テーブルも、行列も、店も、
すべてがなくなっている。座っていたはずの自分も、立ち上がっている。

薄暗い場所。どこかはっきり思い出せないが、どこかで見たことの風景。
なにも音はしない。広がるのは深遠なる闇。自分のほんの周りしか認識することができない。
闇、闇、闇。延々と続く闇。その中心に自分が立っている。ひとり、ぽつん、と。
あれだけの人がいたのに、一瞬にして消えてしまった。どこへ?いったいどこへ消えたというのだ?
ふと目を自分の手に向けると、その手には大きな鉈を持っている。(いつの間に持ったのだ?)
良く見ると、刃先から黒い液体が滴り落ちて、足元に黒い水溜りができている。
その黒い液体は、水溜りの中でうねっているように見えた。
(タール?)
ちがう。これは血だ。動脈を流れる真っ赤な血ではなく、静脈を流れる、一酸化炭素を多く含んだどす黒い血。

鉈を足元に落とし、自分の体を触る。どこも痛くない。傷もないようだ。
つまり、この血は自分の血ではないということだ。では誰だ?誰の血だ??思い出せない。
誰かをこの鉈で傷つけた、いやこの血の量では切り傷程度の傷ではない。致命傷だ。
・・・致命傷。死に至る傷。俺は誰かを死に追いやったと言うのか?誰かを殺したのか?
ちがう。ちがうちがうちがう!絶対にそんなことはしていない。しない。それだけはしない。
誰かを殺したりなんてしないしないしないしないしない。

「お客様、お客様。大丈夫ですか?」
ハっとして顔を上げる。目の前には先ほど料理をテーブルに運んでくれた青年が立っている。
状況が飲み込めないまま、青年と目をかわす。
目をそらし周りをみると、ビルが立ち並び排気ガスが立ちこめている、いつもの景色だ。
足元には鉈はなく、代わりにフォークが一本落ちている。
右腕をテーブルの上に乗せ、ひじを付いた状態で手のひらが上を向いている。
テーブルに目を落とすと、食べかけのきのこパスタが冷たくなっていた。




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